Library Door / The Pilot Story

更新履歴

04.03.18 第5章を公開。
04.03.15 第4章イアンの項にKeatsの情報を加筆。
第3章第5項 Two's A Crowd の項の写真を差し替え。
03.11.04 第4章スチュアートの項に補足。
03.10.22第4章スチュアートの項を公開。
03.09.05 第4章ビリーの項を公開。
03.07.29 お待たせしました!ゼンサクさんのデイヴィッドとの会見記
Let's Talk About Me 公開です。気持ちだけでもこの労作に報いるべく、別館を新設し、
その第一号収録作品とさせていただきました。ゼンサクさん、どうもありがとう!
03.05.18 第4章イアンの項で、最後のAPPアルバム名誤記を訂正。ゼンサクさん、ありがとう!
03.05.16 第4章イアンの項を公開。デイヴィッドの項に加筆(ほんの少しだけ)。
03.02.05 第4章デイヴィッドの項に加筆。
02.12.21 第4章デイヴィッドの項を公開。それに伴い、第3章第5項を改稿。
Blue Yonderが出たのですから、何とかそこまでは話をもっていかなくては!頑張ります。
02.08.22 第1章イアンの生年を訂正。誤記したまま、ずっと気づかずにいました(恥)。
1年ぶりの更新がこんなんですみません。出居さん、言いにくいことをありがとう!今後も頼りにしてます。
実は先日、レコード番号もいくつか直してます(中田さん、ありがとうございます)。
管理人はかなり慌てものですので、皆さんお気づきの点はどしどしお知らせください、どうかお願いします。
01.07.21 第3章第5項 Two's A Crowd の項を公開。
第3章第3項を改稿(ほんの少しだけ)。
01.05.28 第3章第4項 Solo Casting の項を公開。
01.03.17 第3章第3項 Morin Heights の項を公開。
00.12.17 Second Flight Part III を公開。
00.10.16 Second Flight Part II を再度改稿(またまたほんの少しだけ)。
00.10.07 Second Flight Part II を改稿(ほんの少しだけ)。
00.10.06 Second Flight Part I と Part II に加筆。
00.10.05 Second Flight Part II 公開。
00.08.26 Second Flight Part Iにツアー日程追加分とトッシュ君の発言等を加筆。
00.08.25 第3章第2項 Second Flight Part I 公開。
00.07.20 第3章冒頭のFrom The Album Of The Same Name の項を公開。
00.06.07 第2章を公開。
00.04.17 第1章イアンの項を公開。デイヴィッドの項に加筆。
00.04.17 第1章ビリーの項を公開。序章に加筆。
00.04.08このままではいかん!と連載形式でのり切る決意を固め、序章と第1章の前半(トッシュ君とデイヴィッド)を公開。
(この間煮詰まり続けること3ヵ月)
00.01.18 扉ページ開設

月イチ連載と化しつつ(時々落としたりなんかしながら)も、現在鋭意執筆中。

注) これは決定稿ではありません。随時加筆訂正していきますのでご了承ください。
風景及び建物の写真は95年夏に撮影したものです。一部の写真の撮影および資料に関して、まさみさんのご協力を頂いております。


Prologue / Egidinburgh 序章 エディンバラ



スコットランドの首都・エディンバラは、全体に黒っぽい色調の静かな町である。
Edinburgh Waverly駅とその周辺は確かに賑やかな都会だが、目抜き通りの
Prince’s Streetから一本離れると、そこには駅前の喧燥が嘘のような閑静な町並みが
広がっている。ゴルフ発祥の地だけあって緑地が多く、広い公園もあちこちに見られ
る。立ち並ぶ石造りの建物に否応なしに歴史を感じてしまう、そんな古都で彼らは
生まれ、育った。

(写真右/Edinburgh Waverly 駅からの眺め)





95年夏、ヨーロッパを数十年振りという記録的な猛暑が襲ったその時、まさみさんと
私は彼らの故郷にいた。ロンドンの喧燥は東京とあまり違わない。だが、
エディンバラは明らかにロンドンとは違っていた。この旅の第一の目的は、実は
ビリーのお墓参りであった。そして、限られた日数ではあるが、出来る限り彼らの
町を自分の足で歩いてみたかったのだ。彼らの母校の住所や生まれ育った地域
も分かっている。だが、とても一度では回り切れない。イアンの故郷・シェトランド
諸島はもとより、トッシュ君のアバディーンも難しい。そこで、それらは次回に譲る
事にして、今回はエディンバラに的を絞ったため、結果的に、エディンバラの
中心部に住んでいたビリーとイアンに関する写真が多くなっている。
(写真右/Lothean Roadを走るバスの中から)

この旅のために、私はイングランドとスコットランドの様々な省庁・施設に本当に沢山の
問い合わせをした。中にはひどく漠然としていて我ながら申し訳のないようなものも
あったのだが、どれにもみなとても親切かつ適切なお返事を頂いた。殊にロジアンの教育庁と
エディンバラの観光庁の方にはお世話になった。彼らの助力がなかったら、この旅はこんなに
実りあるものにはならなかっただろう。ありがとう。そして94年秋のある日、大仕事を前に
ともすれば挫けそうになる自分を追い込むため、私は旅券事務所に向かった。そして帰り道、同じビルの外国煙草
売り場で、ビリーが好きだったというゴロワーズを一箱買った。煙草なんて吸えもしないけれど、お守りのつもりで。

後でまさみさんが言っていた。「戸村さんパスポート取っちゃったじゃない?あれが私にとっては直接の
きっかけだったんだよ」。無謀とも言える始まりだったが、とにかくあの時の私は、今行かなければ、という
焦燥感に居ても立ってもいられなかったのである。宿の手配、チケットの準備、そういった方面に全く才能の
ない私のに代わり、まさみさんが準備万端整えてくれた。空港での荷物待ちの時間さえ惜しかったので、
旅慣れた彼女の助言に従い、ハンドバッグと機内持ち込みぎりぎりのトランク一つで、私たちは出発した。




Chapter 1 / Pre ‐ PILOT Days 第1章 それぞれの生い立ちとパイロットまでの道のり

Stuart Tosh (スチュアート・トッシュ)

Stuart Toshは、1947年9月26日、エディンバラより更に北の町、アバディーンで
4人兄弟の末っ子として生まれた。家族は両親と姉、二人の兄で、父親は音楽関係の
セールスの仕事をしていた。Bloomhill Primary School 在学中の10歳の時にスネア・
ドラムを買ってもらったのが、ドラムとの出会いだったようである。尤も、父もアマチュアながら
ドラマーだったということなので、その影響もあったのかもしれない。Kaimhill Secondary
School 在学中の13歳の時、父親の仕事の都合で一家はエディンバラに移る。そこで彼は
Forrester Secondary School に転校し、卒業。学校を出た後、彼は家具のセールス
マンを皮切りにいくつかの職業を経験する。それと並行していくつかのバンドで
ドラムを叩くという生活を数年続けた後、70年にTwigというバンドと共にドイツに渡る。
3年後に帰国した彼は、今度は南アフリカに渡るつもりで、それまでのつなぎにと、また
いくつかのバンドの仕事をした。その中の一つのBand Of Goldのドラマーがサッカー狂
だったため、彼は度々助っ人として呼ばれていたのだが、そこにいたのが David Paton
と Ian Bairnson だったのである。




David Paton(デイヴィッド・ペイトン)

David Patonは、1949年10月29日、エディンバラに生まれた。当時住んで
いたのはLeithという地区で、両親と2歳上に姉がいる。父親はオペラ歌手だったという
事だ(先年亡くなられたが、Davidの初ソロである"Passions Cry"はその父上に
捧げられている)。その影響で、彼もやはり音楽には幼い頃から非常な興味を抱いて
いたようである。彼がLeith Academyに2年通った後、一家はInchという地区に転居
する。そこでInchPrimary SchoolからLiberton Secondary Schoolを卒業する。
スチュアートと同様に、彼もBBC放送の運転手、整備士等様々な職業を経験する
のだが、かの名曲“Magic”は彼が牛乳配達をしていた頃に出来た曲だということ
である。David の場合、最初のチャンスは意外に早く訪れた。彼が参加していた
エディンバラのローカル・バンドがBootsという名でCBSと契約したのである。
このバンドはシングルを出したが不発に終わる。失意の彼は故郷に戻り、髪を
切って電気技師として働き始める。そこへ声をかけたのが Bay City Rollers
のマネージャーとして有名なタム・ペイトン(但し赤の他人)だった。当時既に
地元では人気のあったBCRに、Davidは加入する。やがて新しいオルガニストが
入るのだが、彼はどうしてもそいつが気に入らなかったようで、「こいつが辞めるか
俺が辞めるかだな」とまで思ったという。しかし本当に世の中とは分からないもので、
そのオルガニストこそ誰あろう、後に彼と強い絆で結ばれる Bill Lyallであった。
"Keep On Dancing"(邦題「朝まで踊ろう」。東芝から日本盤シングルが出ている)のヒットでBCRがブレイクする(但し、
この時のヴォーカリストはNobby Clark)直前、Billy と前後してBCRを脱けていた彼は、今度はChristyanというバンド
で Nursery Lane/Desperate Dan というシングルをDeccaから出すが、これも失敗に終わる。夜はTiffany's という
クラブのハウス・バンド Band Of Gold で Ian と演奏しながら、昼は Billy の勤めるスタジオの空き時間を
利用して一緒に曲を作り、「ドラムが欲しいな」「いい奴知ってるよ」 とStuartを呼んでくる、そんな毎日だった。



Billy Lyall(ビリー・ライアル)

William Lyall は1953年3月26日、エディンバラに生まれた。家族は両親と弟妹一人ずつ。
「エディンバラのブロンクス」と呼ばれる Tollcross という地区で育つ。ここはEdinburgh
Waverly駅に程近い賑やかな地域で、父親はホテルのマネージャー、母親は保険会社に
勤めていた。学齢に達した彼は、祖父や父が通っていたという理由から、James Gillespie
Primary School という私立の男子校に入学するが、「全く勉強しなかった(本人談)」ため、
進級試験に失敗してDarroch Junior Secondary Schoolに進み、途中 Boroughmuir
Secondary Schoolに転校する。理由は、音楽の先生にその学校を薦められたためである。
彼が最初に手にした楽器はリコーダーだったが、じきにもの足りなくなってフルートに持ち
替える。16〜17歳頃にLeithの古道具屋で買った15ポンドのピアノが彼の最初のピアノ
なのだが、当時オーケストラでフルートを吹く事が夢だった彼は、買ってから1年ほどは
ピアノには触わりもしなかったと言う。ある日、新聞にこんな広告が出た。「オルガニスト
求む。経験不問。但し、容姿端麗のこと」。こんな求人広告、出す方も出す方だが、
しゃあしゃあと応募する方もする方である。ともあれ、これが Bay City Rollers 、そして
David との出会いだった。会計士の助手を務めながらおよそ1年半でBCRを離れた後、
彼は地元のCraighall Studiosにテープ・オペレーターの職を得、そこでの
3年間でチーフ・エンジニアにまで昇格する。そんなある日、Edinburgh
Music Library でデイヴィッドとばったり出会ったのだった。




(写真左上/James Gillespie Primary School 、写真右上/Boroughmuir Secondary School)





偶然にも、私たちの宿と公園を挟んだ向かい側がビリーの小学校だった。
中学校も直ぐ近くだったし、彼の住んでいたTallcrossは目抜き通りの
Princes Streetからちょっと歩いただけのところにあった。「ねぇねぇ、
ビリーも絶対この道通って学校に通ってたよね!」 と私たちは胸が詰まる
ような思いでその道を歩いた。


なお、上の写真に小さく遠慮がちに写っている女性はまさみさんである。
(写真左/Tollcrossの交差点)




Ian Bairnson(イアン・ベアンソン)

Ian Bairnson は1953年8月3日にシェトランド諸島のLevenwickで生まれた。シェトランド
諸島スコットランドの北の海に浮かぶ群島で、Orkney群島の北東に位置する。両親は
お店をやっており、姉(妹?)が一人いる。離島の事ゆえ、人口も少なく、島の小学校では
彼の同級生は一人きりだったと言う。音楽との出会いは6歳の時、誕生日のお祝いに
貰ったお金で買った3ポンド15ペンスのギターが彼の最初の楽器だった。以来40年以上、
彼は誰に習う事もなく誰の真似もせず、また誰にも真似の出来ない独自のフレーズを
紡ぎ続けている。シェトランド諸島の大自然の中、彼はギターとバイク(年齢を考えると
自転車か?)を友として伸びのびと育ってゆく。しかし、9歳の時に父親が亡くなった
ため、母親は店をたたみ、二人の子供を連れて船に乗る。そしてエディンバラに落ち
着いた。新しい住まいはPilrigという地区にあったが、そこは彼の生まれ故郷とは似ても
似つかない町の中だった。「外に出る気にもなれなかった。原っぱもなかったんだ。ギター
を抱えて部屋に閉じこもっていた」。しかし、閉じこもってばかりもいられない。彼は奨学金
を得て、長い歴史を誇る George Heriot School に入学する。ここはエディンバラの
中心部に当たり、Edinburgh Waverly駅からも目抜き通りのPrinces Streetからも近い。
広大な敷地に佇む壮麗な建物で、歴史的な価値も高いという。そんな学校に通いながら、
彼は土曜日になるのを待ちかねるようにして楽器屋にも通っていた。13歳でFinders Keepersに
参加したのを皮切りに、様々なバンドと共に活動する。East Westというバンドの時にはロンドンで
アルバムの録音までしたが、残念ながら結局リリースはされなかった。その後、Earsを経てTiffany'sで
David と Stuartに合流するのだが、望みも大きく実力も抜きんでていた彼は、一足先にロンドンに出て
セッション・マンとして働き始める。そして今でも強固な絆を保ち続ける Alan Parsons と出会うのだった。





この学校の建物は元はお城だったそうだ。これは正門。
夏休みとは言え、とても首都の中心部にあるとは思えない
ほど閑静な住宅街にあった。歩いているのは、たまたま
通りかかった紳士である。

(写真右/George Heriot's School)




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