Second Flight / Part 1


スパークスのサポートを好評のうちに終えた彼らは、1974年12月、希望に燃えて初のヘッドライニング・ツアー
を開始する。サポートにはジョージ・ハリスンの秘蔵っ子と言われた男性デュオ・Sprinterを迎えていた。
クリスマスには故郷エディンバラで凱旋公演も予定されており、前途には何の不安もないかに思われた。
しかし、好事魔多し、ツァー初日を終えた後、デイヴィッドの喉に故障が起き、ドクター・ストップがかかって
しまったのだ。過労気味だったデイヴィッドはツアー直前に風邪を引いてしまい、「それがもろに喉に来た」の
だった。初日は無事終えたものの、二日目のサウンドチェックの時には全く声が出なくなっていた。後々のことを
考えて、彼らは残りの全日程をキャンセルすることを決意、デイヴィッドは休養のため、家族の待つエディンバラに
戻った。ほどなく彼の健康も回復し、この時のツアーの「やり直し」は4月25日から5月19日までの日程で、
今度は無事行われた(20日と21日にジャージーで追加公演が予定されているとの情報もあるが、実際に行われた
かどうかは未確認である)。

Pilot UK Tour 1975
24 AprDouglas Palace Lido
26Hanley Heavy Steam Machine
27Newcastle City Hall
28Manchester Free Trade Hall
29Southport Floral Hall
01 MayBristol Colston Hall
02 Leeds Town Hall
03Edinburgh Usher Hall
04Dundee Caird Hall
06Glasgow Apollo
08Aberdeen Capitol
09Sunderland Locarno
10Hull University
11Guildford Civic Hall
12Ipswich Gaumont
14Plymouth Guildhall
15Yeovil Johnston Hall
16 Taunton Odeon
17Chatham Central Hall
18London New Victoria Theatre
19Birmingham Town Hall
20&21Jersy(unconfirmed)





曲によってはバブル・マシンを用いたりしていたため、 どうしても 「元BCR」
の枕詞がついて回り、「どうせお子様向けバンド」的先入観抜きでパイロット
の真の姿を見ることの出来る評論家は本当に少なかった。その点では寧ろ、
ファン達の方が確かな目と耳を持っていたと言えるのかもしれない。「パイロッ
トは本当に力の ある素晴らしいバンドです」 「彼らの外見や(元BCRという)
経歴に惑わされず に、もう一度きちんと彼ら音楽を聴いてみて下さい」 といっ
た投書が随所に見受けられる。ただ、この僅か2年後には、移り気なファンは
彼らを忘れてしまうのであるが……。

それでも、イアンのギターを無視することだけは、評論家連中にも出来なかっ
た。「叫び声ばかりでうんざりだが」 「音響や楽器のトラブルがあったにもかか
わらず」 等と前置きした後で、例外なく 「イアン・ベアンソンのギター・ワークは特筆に価する」 「素晴ら
しい」 と誉めているのである。但し、ここではっきりさせておかねばならないと思うが、パイロットのステージは
決して子供だましでもチャチなものでもなかった。当時のレヴューだけ読むと、イアン以外は問題にされていない
ようにも取れるのだが、全員それぞれが実に達者としか言いようのないプレイヤーである。ステージではレコードを
遥かに上回ると言っても過言ではなかった。これは紛れもない真実である。何故当時のマスコミが他の3人を黙殺
したのか、理解に苦しむ次第だ。





特記事項として、このツアーでは、2曲のレコード未収録曲が演奏されていたことを挙げておきたい。Crying (イン
ストらしい) と Hold Me で、いずれもイアンの作である。特に後者はファンキーなクロスオーヴァー色の
強い作品で、時代をかなり先取りしたものである。

75年はパイロットにとって最も華やかで実にめまぐるしい一年だった。1月にはマネージメント主導でオフィシャル・
ファン・クラブが設立される(ファン・クラブ・キットについては資料のページを参照されたい)。申し
込みは殺到し、3月には5000人を突破した。

その年の3月にはファーストと同じくアラン・パーソンズのプロデュースの下、Air Studios にて2枚目の
アルバム Second Flight を録音しているが、発売が5月に予定されていたせいか、3月中だけで録音を
全て終えるという強行スケジュールであった。そう言えば、ファースト・アルバムの録音に要した時間について、
トッシュ君がこんなことを言っている。「(アルバムのクレジットでは数ヶ月かかったようになっているけど) 実際には
あれ全部一日で録っちゃったんだよね。そういうの得意なんだ。デビュー前、エディンバラの Craighall Studios
で練習してたんだけど、空き時間を利用するっていうんで、いつも時間に追われてたから。それに、ビルは
有能なエンジニア兼プロデューサーだから、作業を手早く進めるのにはもってこいさ」。

だが今度は、十分な曲のストックがあって演奏しさえすればよかったファースト・アルバムの時とは状況がまるで
違っていた。この1年間で彼らを取り巻く状況は激変していたのだ。特にデイヴィッドにとって、それは深刻だった。
ファースト・アルバムの録音の時には、曲数にも精神的にも余裕があった。そして、セカンド・アルバムの録音まで
にはもっと書ける筈だった。それがパイロットがあまりにも急激に売れ出したため、作曲に十分な時間を
取れなかったのだ。彼らは時間的にも精神的にもぎゅうぎゅうの状態でスタジオ入りしなければならなかった。
元々デイヴィッドは多作というわけではない上に、環境を整えないとなかなか書けない性質らしい。
デイヴィッド脱退の噂が流れたのも丁度この頃だった。各方面で話題となるが、3月中旬になって自ら
「考え直した」と発表、騒ぎは収束する。元来ナーバスな性質の彼は、あまりにも急激に変化した環境に
他のメンバーと違ってなかなか馴染めず、曲作りの時間が欲しいのに全然取れないことにも悩み、実際この時期
にはかなり参っていたようだ。そして彼の気づかないうちに、ビリーとの関係に微妙な変化が現れ始めたのだった。

一方、1月17日に先行シングルとして発売されていたJanuary / Never Give Up(EMI2255) は
発売後わずか2週間で全英ヒット・チャートの第1位を獲得し、これはシャルル・アズナブールの"She"が
持っていた、発売後3週間で第1位というそれまでの記録を塗り替えた。遅れて発売されたオーストラリアでも、
この曲は11週連続第1位という記録を打ち立てているのだが、何故かアメリカでは受けなかった。そのせいで
パイロットはアメリカでは「一発屋」扱いされている。ただ、当時人気絶頂だったアメリカの David Cassidy はこの曲を
とても気に入り、76年発売の自分のアルバム Home Is Where The Heart Is の中でカヴァーしている。

4月4日には国内でのJanuaryの大ヒットを受けてシングルCall Me Round / Do Me Good (EMI2287)が発
売され、追いかけるようにして 5月にセカンド・アルバム Second Flight(EMC3075) が発売される。
シングルを6枚集めたような、彼らの4枚のアルバム中最もポップでカラフルなもので、よく代表作とも言われる。
4人のメンバーが全員揃っているという点でも重要な1枚である(なお、アメリカでは January (ST11488)の
タイトルで曲順とジャケットを変えて発売された)。ところが、 Call Me Round はどういうわけか思ったほど
には売れなかった。実際には34位の中ヒットだったのだが、Januaryの直後に彼らが要求されたものは
あまりに大きかったのだ。



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