Morin Heights



厳寒のカナダはモーリン・ハイツで、トリオになった彼らは3枚目のアルバムの
録音に取り掛かった。ビリーを失い、あまりにも多くの出来事があった75年と訣別
するかのように、彼らは心機一転、プロデューサーに それまでの Alan Parsons
ではなく、新しく Roy Thomas Baker を迎えた。彼はパイロットと丁度同じ頃に
やはり EMI からデビューしたQueen のプロデューサーとして有名だった。彼ら
自身が変化を望んだのだ。当然、サウンドは一変した。Second Flight から続く
路線を期待していた人々は、新しいアルバムMorin Heights の1曲目 Hold On
に針を落とした瞬間、度胆を抜かれたに違いない。つんざくようなイアンのギター
に続いて、絞り出すようなデイヴィッドの声、シンバルを多用した硬質なスチュワート
のドラム、今聴いてもやはり彼らの残した4枚のアルバムの中では異彩を放つ1枚
だと言えよう。彼らの力量を示す好盤として高い評価を与える人々も少なくはない。
業界筋にも 「パイロット第2期の幕開け」 などと呼ばれて概ね好評だった。イアン
のギターを前面に押し出したことによりサウンドに奥行きが出て、詞も今までとは
異なった方向性を持ち、成熟した新生パイロットの前途は明るい、など好意的な
評が多く残されている。その証拠に、「モーリン・ハイツ」 はパイロットの残した4枚の
アルバムの中で最も売れたのだそうだ。ところが、当時大多数のファンはこの
アルバムを聴き、求めていたものと違うからとそっぽを向いた。離れていったファンも
少なくはない。ファンが彼らの変化を受け入れなかったのだった。

(写真左 / Words 1976年10月1日号 表紙)




モーリン・ハイツに今もある録音スタジオ 「モーリン・ハイツ・スタジオ」 (ホームページ
には今までのこのスタジオで録音したアーティストの名が連ねられており、勿論、
パイロットも含まれている) からその名をとった彼らの意欲作 「モーリン・ハイツ」 は、
録音だけでも5週間を費やし、その後ニュー・ヨークで2週間かけてカットされた。
今までとは違い、十分に時間をかけることが出来た。ここでちょっと触れておきたい
ことがある。日本盤では内袋が異なるため運悪く省略されてしまっているのだが、
イギリス盤を初めとする各国盤の多くの内袋には、裏面右下の方にほんの心持ち
大きめの文字で "NO HANDCLAPS" と書かれている。彼らの決意表明
とも言えるこの力強い一言を見る度、私は心臓が軽くスキップする。一説によれば、これは
プロデューサーであるベイカーのジョークだそうだが、当時のファンは
一体どのような感慨をもってこの言葉を受け止めたのだろうか。
(写真右/Morin Heights イギリス盤LP内袋裏面右下部分拡大図)



アルバムは当初5月に予定されていたのだが、8月まで遅れた。それを待つ間に、先行シングルとして5月、
Running Water が発売された。各音楽新聞には当然のように全面広告が載せられ、3人でも
パイロットは健在とのアピールがなされた。「ステージではキーボード・プレイヤーを2人とギタリストを
1人加えて6人編成でやっている。ビリーの脱けたあとをパーマネントに補充するつもりは今のところない」
との彼らの発言通り、この頃のステージやテレビ出演ではこの6人編成(あるいはキーボード・プレイヤーと
ギタリスト各1人を加えた5人)である。7月には同じく「モーリン・ハイツ」 からの2枚目のシングル Canada
が発売された。スチュワートが 「一身上の都合により」脱退を発表したのはその直後、待望の新譜
「モーリン・ハイツ」発売の前の週 、正確には76年7月末から8月5日までの間のことであった。
後にイアンが語ったところによれば、スチュワートは特にパイロットに不満があったわけではなく、当時
交際中の女性との結婚を考えていて(後に彼女と結婚)、一所に腰を落ち着けた生活を望んでいた
らしい。1月の突然のビリー独立劇に続いて起きた、これも突然のスチュワート脱退には、誰もが仰天
したと言う。パイロットはたった半年ほどの間に4人から2人になってしまった。そして「モーリン・ハイツ」 は
人々が微かな不安を胸に見守る中、8月6日にやっと世に出たのだった。



10月、EMI から最後のシングルとなる Penny In My Pocket が発売された。
スチュワートはもういなかったが、彼のいた頃の録音である。遂に2人きりになって
しまった事について、イアンは当時こう語っている。「2人になったことで不自由に
なったのではなく、却って選択の幅が広がって自由が増したと考えることも出来る。
デュオになった今では、ブラス・セクションを加えようと思えば簡単にそう出来る。
バック・コーラスを付けることも、ピアニストを3人雇うことだって思いのままさ」
「例えば、ダンサブルな曲を、パイロットではなく別名で出せば必ずヒットさせる
自信がある。僕らにはそれだけの力があるんだ。でも、だからと言って金のために
ヒット曲を書くというのはまた別の話なんだよ」。

一方、パイロットを脱退したスチュワートはロジャー・ダルトリーのソロ・アルバム等
セッション中心に活動していたが、77年6月から10ccのワールド・ツアーに参加、
彼の腕前と器用さと人柄に惚れ込んだ10ccの2人(エリック・スチュワートとグレアム・
グールドマン)に請われて、同年10月10ccの正式メンバーとなり(80年まで)、
10ccがデュオに戻ってからも90年代に至るまで、事ある毎に彼らの力となった
のだった。(詳しくはセッションのページを参照)
(写真はイギリスのある音楽新聞から、「モーリン・ハイツ」の頃のステージ・メンバー)


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