Second Flight / Part 3



この頃、彼らは最初の曲がり角に差しかかっていた。デビュー当時はただ夢中で走って
いただけだったのが、それから1年余りを経て周りを見渡し、自分達の考えを追う余裕も
出来てきた。

ところが折悪しく、世はアイドル・グループ全盛期だった。その筆頭が、「エディンバラ
出身でポップスと聞けば、人はBCRという化学反応を起こす」 とまで言われたBCRだった。
そして、デイヴィッドとビリーはローカル・バンドだった頃のBCRに在籍していた。その経歴と、
若く清潔そうなルックスが、パイロットには大いなる災いとなったのだった。

左の写真は、あるポスター・マガジンに75年に載ったものである。微笑んでこそいない
が、彼らはトレード・ マークの 「パイロット・セーター」 をお揃いで着ている(これ以前には
白い長いスカーフをよく巻いていた)。それぞれ数種類ずつバリエーションのあるこの
セーターは、マネージャー・Heath兄弟の片割れである Nick Heathの妻、Ann‐Marie の
デザインであり、彼女はパイロット・オフィシャル・ファン・クラブの運営も兼任していた。
アン・ マリーは75年に最初の子供である James Alexander Nicholas を出産するが、その
名付け親はデイヴィッドとビリーである。洗礼式には彼らも背広姿で出席した。ニックは
パイロットのファースト・アルバムの"Auntie Iris"で "Oh, yes she does."と合いの手を
入れている男性であり、当時のバンドとマネージメントとの結びつきは良くも悪くも強かった
と思われる。世慣れない若いバンドと、公私共に密接に結びつき、大きな影響力を持つマネージメント。両者の
歯車がうまく噛み合っている間はそれでもよかった。しかしこの後、両者の関係は急速に悪化していくことになる。




彼らは75年10月中旬からサード・アルバムの録音にかかる予定だった。「既に8曲できている。
手拍子はもう使わない、もっと大人っぽいスタイルにするつもりだ。今までとは大分違うから、誰も
僕らの曲だってすぐには分からないだろうな。パイロットだってことに拘らないで欲しい」 という
発言には、「ティーンのアイドル」 という根拠のない不名誉なレッテルから、何とか逃れたいと
もがき苦しむ彼らの姿が見え隠れしている。デイヴィッドは同じ頃、こう語っている。「人に『いい
曲だ』 って言われたいな、『ヘイ・ジュード』 みたいに。60年代にはいい曲がたくさんあった
けど、誰の歌かは必ずしも知られていないなんてことがよくあったよね。僕らがもう10年早く出て
きていたのだったらって思うよ。僕らには60年代の方が合ってたんだと思う」。

アイドル扱いはされていても、実力は折り紙付きだった彼ら4人は、この年、プロデューサーで
あるアラン・パーソンズが Eric Woolfson と組んで始めた Alan Parsons Project のファースト・
アルバム Tales Of Mystery And Imagination に揃って参加した。以後、APPの全てのアルバム
と、プロジェクト以後、パーソンズとウルフソンが袂を分かってからも、APとパイロットのメンバー
との縁は続いている。詳しくはセッション別項を参照されたい。

ここで一つ、最近耳にした意見で非常に興味深いものがあったのでご紹介したい。「パイロットは
レコードよりライブの方が遥かにいいですね。ただ者ではないという感じです。アラン・パーソンズ
がプロデュースした他のアーティストの例から推しても、どうもレコードでのあの甘口の味付けは
パーソンズ自身の趣味が多分に反映 されていたのではないかという気がします」 というものだ。
それで思い出したのだが、 75年当時、トッシュ君が 「実はプロデューサーは助言程度しかしてないんだよ」 と
ぽろりと 漏らしたことがある。これはどう考えるべきだろう?プロデューサーに頼らなくても、大概のことは自分達で
こなせるのだ、 という自負心の発露と見ることもできるだろうが、計算ずくであのサウンドの 「甘さ」 を演出していた
のが彼ら自身であり、パーソンズはそれを助けただけ(だとしても、これ以外は考えられない人選だと私は思う)なの
だとしたら?それなら、 「モーリン・ハイツ」でのあのあまりにも堂にいった豹変ぶりも肯けるのだ。パイロットは元々が
セッション・マンとエンジニアからなるバンドである。どんなサウンドだって思い通りに作り出せるし、どんな注文に
だって応えられるのだから。後の彼らの仕事の内容が、そのことを何よりも雄弁に語っているとは言えないだろうか?

(写真中/Record Mirror Annual 1977 より)


そんな中で、 ビリーは一人不満を募らせていった。なかなか自分の曲がシングル・カットされ
ないからである。 満を持して再発した「ジャスト・ア・スマイル」 は周囲の期待を満たすことは
出来なかった。続くシングル Lady Luck (EMI 2377) も、チャートでは振るわなかった。それでも、
シングルになるのはデイヴィッドの曲ばかり。自分の曲ではない。終いには、プロデューサー
であるアラン・パーソンズがデイヴィッドをえこひいきしているせいだとまで曲解するようになった。
そんな折も折、 マネージメントがビリーの不満を嗅ぎ付けて、あろうことか、パイロットからの
独立を焚き付けたのだった。マネージメントとしては、ヒット・バンドを二つにしようという、自分の
側にだけ虫のいい目論見だった。バンドの将来やメンバーのことは思慮の外だったのだ。生来
かなりの自信家で、 自己主張も強く、石橋を叩いて渡るような生き方とはまるで無縁だった、
それどころか好んでナイフの刃の上を歩くような人生を貫いたビリーだったから、普通だったら
考えられないようなこの話を受けてしまった。勿論、3人は引き止めたが、一旦決めたら彼は
動かなかった。そしてこの時、彼は自分がゲイであることをも仲間たちにそっと告げたのだった。

こうしてパイロットとデイヴィッドはビリーを失った。 76年1月、彼らの英本国での最大のヒット
「ジャニュアリー」 から丁度1年後の出来事であった。2月に予定されていたツアーは当然
中止され、残る3人は予定よりも3ヵ月遅れで、 サード・アルバムの録音のためにカナダへと
発って行った。

(写真右/Solo Casting のプロモーション用写真。彼はソロ・デビューに当たって、75年中
生やしていた髭をきれいに落とし、髪も少し短くしている)




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