Billy Lyall


76年初めにPilotを脱退後、Billyは77年にソロ・アルバムSolo Casting (EMA 780) を発表するが、セッションや編曲も
それと並行してこなしていた。76年にLove ForceのシングルFighting On The Side Of Love (RSO 2090 196)、
Jess Roden BandのアルバムPlay It Dirty Play It Class (ILPS 9442)、77年にはMoon のアルバム
Turning The Tides (EPC 82084)、Neil Innes のシングルLady Mine (Arista ARIST 106) 等で編曲を担当、
その後はセッションも増え、Ali Thomson、 Runner, Dana, Kris Ryder, Sheena Easton等のアルバムに
参加している(詳しくはセッションのページ参照)。特筆すべきはDollar (79年〜87年) との活動で、
ビリーは彼らのデビューから解散までの全て (ソロ活動を除く) に関わっている。スタジオ録音は勿論のこと、
ステージでも彼らの後ろでキーボードを弾くビリーの姿が、ファンの保存するフィルムに残されている。
80年代の彼は髪を短く整え、口髭を蓄えていた。

ビリーの遺した仕事は不明な部分が多い。ダラー以後はスタジオ内の仕事(健康面の問題のせいだろうか、
ミュージシャンとしてではなく技術関係、あるいは運営面らしい)をしていたとも風の便りに聞いたが、
詳細は依然不明のままである。ずっとロンドンの高級住宅街に暮らし、身の回りには良いものだけを選んでいたというビリー。
パイロット時代に貼りついた「ポップ」なイメージを脱ぎ捨てることにこだわり、名前を Billy (Bill) Lyall から
William C.Lyall に変えてまで様々に努力したが、80年代にAIDSを発症、看護も闘病も空しく、
89年12月26日、36歳の若さでロンドンで亡くなった。やはり同じ病だった恋人の有名ギタリストの後を追うように、
彼の死から2ヶ月余り後のことだった。英国の大衆紙The Sunは"Pop Star Died Of Aids"として
Billy の死を大きく報じた。その日はB版まで確認しているが、A版B版共に写真は70年代のPilot時代のものだった。
晩年は表舞台に登場することが殆どなかった彼だから、最近の写真がなかっただけのことかもしれないが、
それが彼の嫌いぬいた"Pop Star"のイメージを再確認する結果になってしまっている。
彼と彼の苦闘を知る人々にとってはやりきれないものだった。


(95年8月撮影。花はまさみさんと私が日参しては供え続けたもの)

彼は今、故郷エディンバラの共同墓地で静かに眠っている。おそらくはご遺族の手によってであろう、
墓前に花の絶えることはない。デイヴィッドもかつて「週に一度はお参りします」と言っていた。
グランド・ピアノをかたどった小ぶりな美しい墓石からは彼が生涯音楽を愛し続けたことが伝わってくる。
墓碑銘に"Pilot"の文字はない。そこに眠る彼がかつて有名なミュージシャンであったことを知る人も殆どない。
彼はWilliam C. Lyall として、家族に愛されたBilly として、そこにいる。


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