Chapter 5 / Together Again
第5章 再びの離陸

再結成

それぞれの道に別れた後も、彼らは互いに行き来していた。左の写真は
1980年代のある日、デイヴィッドの自宅居間でのひとこまである。
おそらくは1984〜5年ごろと推測される。

その後しばらくして、デイヴィッドは「パイロットを再結成しよう」と言い出した。
しかし、その時ビリーは既に病魔に冒されていた。彼自身にそれを
告げられたデイヴィッドは再結成に向けて準備を急いだが、遂に
間に合わなかった。

ビリーの死から2年後の91年、あるインタビューの「理想のバンドを組める
としたら、あなたは誰を選びますか?」という質問に対して、デイヴィッドは
こう答えている。「なんて質問だ!Stuart Tosh、Ian Bairnson、
Billy Lyall、自分だよ」。「理想のバンドはパイロット」、そう言い切ることが
出来る彼を我々ファンは誇りに思っていいだろう。

ビリーが天に召されたことで、完全な再結成は不可能となってしまった。
しかし、それでデイヴィッドはパイロットを諦めたわけではなかった。
過去の栄光に固執するわけではなく、まだパイロットには可能性が
残されていると信じた事と、自分たちの音楽への揺るぎない自負が
あったからだった。

やがて1997年、イアンがアラン・パーソンズと共に初の来日公演を行った。
その時にイアンの口から「DavidとTwo's A Crowdを再録音しようという計画が
あるんだ。アリスタにはCD化するつもりがないらしいが、再録音すれば
それは僕らの権利でCDにもできるからね」ということを聞いた。
「でも、デイヴィッドも僕も忙しいからなかなか進みはしないんだけどね」とも。
彼の言葉通り、それから事態が進展したという話はいっこうに聞こえてこなかった。
だが、待つこと実に5年、とうとうそれはBlue Yonderという形で、待ちに待った
ファンの許に届けられた。

Blue Yonder は現在未CD化で入手困難なTwo's A Crowdの中から
8曲を新たに録音し、新曲2曲と、75年当時の4人揃ったライブ録音を1曲
(しかもそれはレコード未収録のため幻の曲だったHold Meである!)、
計11曲が収められていた。その蔭には現在パイロット公式サイトの管理人
であるKirk Kiester氏の一方ならぬ尽力があったことを書き残しておきたい。
このアルバムのためにレコード会社を設立し、管理運営を引き受けてくれた
のだ。数ヶ月後には日本盤(ボーナス・トラックとしてLovely Lady Smileの
新録音を収録)も出て、25年ぶりのPilot復活は好評をもって迎えられた。

ロック関連にとどまらず、およそ洋楽を扱う媒体の大部分がBlue Yonderをとりあげた。当時パイロットを無視したり
正当に扱わなかったりした人々も、今度はきちんと彼らの音楽と向き合った。この件に関しては、日本盤の
配給元であるクール・サウンドさんと代表の中田利樹さんのご尽力も大きい。付加価値に囚われず、
真に良質な音楽を良心的にリリースし続けてきた会社からパイロットの新作が出せた事は、彼らにとって幸運だった。
彼らが70年代当時望んでも得られなかった正当な評価が、まだまだ十分とは言えないにせよ、四半世紀を経て
今ようやくなされつつあるのだ。

01年の来日公演の際にはイアンのソロ・アルバムの計画がある事も伝わってきた。自宅スタジオで気の合う仲間
(レニー・ザカテクも心臓の手術を乗り越えて協力しているそうだ)とのんびりやっているらしい。デイヴィッドは
既に2枚のソロを送り出していることだし、今度は是非イアンのソロ・アルバムで彼のギターを堪能したいと思うのは
私だけではないはずだ。

2003年、デイヴィッドとイアンは気候温暖なスペインに引っ越した。2人の自宅は車で15分ほどの距離だという。
勿論双方自宅スタジオを備えており、今後のそれぞれの活動に加えて、パイロットとしての活動もしやすく
なっている。パイロットとしての次作については全く白紙の状態だが、Blue Yonderで70年代への心残りを
一区切りつける事が出来、これからは全く新しい一歩を踏み出してくれるのではないだろうか。
それがどういうものかは分からないし、ひょっとするとパイロットには関係ないものかもしれない。
それでも、Blue Yonderを得た今、ファンは彼らが自らの音楽に対する姿勢を信じることが出来るし、
彼らの選択を支持していくことが出来るだろう。ビリーも天国で見守っていてくれるはずだ。
我々にとっては悲願の来日公演だって残されている。全てはまだこれからである。

(第5章終わり。終章へ続きます)

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