その2


ライブが終わって、待つことしばし。家内は彼との約束のことを疑い始めていた。
幼い娘も「帰りたい」と言い始めた。すでに時計の針は午後10時を廻っていた。
しかし、そのとき彼はやってきた。右手を挙げて、にこやかに微笑みながら。
上着は着替えてきたようだ。左手にはミネラルウォーター「ボルビック」のPETボトルを提げている。
ほのかにコロンの匂いがする。夢中で挨拶を交わし、握手をする。

「マリコから連絡をもらったよ」
そう、彼はわざわざ私に会うために終演後、客席にまで足を運んでくれたのだ。

「お会いできて光栄です、MR.PATON。私はこの28年間、ずっとあなたの音楽が大好きでした。」
そんなことを口走ったように思う。夢のようだ。だが、まぎれもなく、これは現実である。

彼の身長は170センチくらいだろうか、167センチの私よりわずかに高い。
確かに年齢は重ねているが、若々しい。笑顔は少年のようだ。(あとで撮影した写真をじっくり見たが、
どれも最高にいい笑顔で写っている。さすがに、元人気グループのフロントマンである。)
彼があまりに気さくな人だったので、私は少々とまどっていた。
「初対面なのにいいんだろうか、こんなにフレンドリーで?」
とにかく、彼に会えた以上は、できるだけいろいろな話をしなくては。
私は日本人ファン代表なのだ、と自分に言い聞かせて気分を落ち着かせた。
幸いなことに彼の英語はほとんど理解できていた。
(それはきっと彼が気を使って、やさしい言い回しをしてくれたのだと思う)



彼は言った。「あの時、コンサートのあとで君たちを探したんだよ」

話はさらに半年以上前にさかのぼる。


2002年3月 KARLSRUHE カールスルーエ

3月21日、カールスルーエで行われたDONNIEのライブで私は初めてDAVIDのステージを
見ることができた。すばらしいステージだった。夢にまで見たDAVIDの生のベース演奏、
そして彼とCHRIS HARLEY(RAINBOW)の絶妙なコーラス!バンド全体のアンサンブルも
申し分ない。元RUNRIGのリードシンガーで「スコットランドの歌う政治家」ことDONNIEの歌を
最大限に活かしている。バンドのメンバーは凄腕ぞろいだ。DONNIEと2人のギタリストを
はずして、アンドリュー・ラティマーを入れると、このバンドはCAMELになってしまうのだ。
(もちろん、そのラインナップで演奏したことはないが)

私はステージ下手に位置する彼の前、2〜3メートルの場所に陣取って、何枚かの写真を
撮った。ずっとではないがアップテンポの曲の時には娘を肩車しながら、体を揺らして
聴いていた。アンコールが終わり、彼はこちらを見て手を振りながら帰っていったが、
家内は「あの人、私に向かって手を振ったわ!」と言ってきかない。東洋人の客は私たちだけ
だったので、きっと珍しいんだとそのときは思っていた。小さな女の子を連れた客も
ほかにはいなかった。個人的には見ることができただけで満足していた。
彼のステージを体験できたのは、「3度目の正直」だったからである。

95年の秋だっただろうか。STUTTGARTの郊外のライブハウスに、DAVIDに会えると思って
FISHを見に行った。ところが、ベーシストは女性に代わっており、がっかりしたことがあった。
あとで知ったのだが、そのときDAVIDは一時的にエルトン・ジョンのバンドに加わっており、
その後FISHと活動を共にすることはなかったのである。また2001年4月にも、南ドイツで
DONNIEのツアーがあったのだが、情報不足と私自身の体調不良で
体験することは叶わなかった。

時刻は夜の10時過ぎ、娘は眠いので機嫌が悪かった。そこで私たちはそそくさと
会場を後にして、ホテルに帰った。ところがDAVIDは終演後に私たち家族を探していて、
挨拶がしたかったというのだ。

後日、戸村さんからメールをもらって驚いた。どうやら、こちらの掲示板に私が書いた
メッセージ(カールスルーエのライブに行く旨)が彼の公式HPの管理人氏を通じて
DAVIDに伝わっていたらしい。私は、戸村さんにお願いして、私たち家族の写真を
DAVIDに送り、わざわざ確認までしてもらった。手を振ってもらったという家内の証言は嘘では
なかったのだ。「もっとずうずうしくても、よかったかな」私は少し後悔した。

しかし、チャンスはまだ残されていた。DAVIDは再びドイツを訪れる機会があることも
教えてくれていた。そして、およそ7ヶ月後、会見が実現したのである。

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